長野県の日本酒をとりまく風土と歴史

長野県の日本酒をとりまく風土と歴史

美しき風土が支える長野県の酒造り

日本の屋根として親しまれる飛騨山脈(北アルプス)、木曽山脈(中央アルプス)、赤石山脈(南アルプス)といった3000m級の山岳地帯を有する長野県。冬ともなればその山並みは深い雪に覆われます。遅い春の訪れとともに山肌を伝って雪解け水は流れ、長い年月をかけ大地をくぐり抜けて地上に姿を現します。酒米が育つ田を潤すのも、日本酒の味わいを左右する仕込み水も、この美しい湧水があってこそ。さらに、湿度が低く、昼夜の気温差が大きい夏の気候は良質な酒米を育みます。かたや寒さ厳しい冬の気候は、江戸から続く寒造りの良質な酒を育みます。四季の変化に飛んだ長野県の美しき風土こそが、長野県の日本酒造りを支えているのです。

長野県の日本酒造りの歴史−明治まで

諏訪神社の酒室の社

長野県の日本酒造りも全国同様、朝廷や神社への供物として造られたのがはじまりといわれています。たとえば諏訪地方などには古代より濁酒の神事があり、現在まで連綿と受け継がれています。平安時代の『今昔物語』には、信濃国で酒に胡桃を濃く摺り入れたものが供されたという描写もみられます。商いとしての酒蔵が登場するのは鎌倉時代以降です。元禄10(1696)年には初めて酒税が登場し、長野県においても現在の日本酒産業の素地がつくられていきます。当時、わかっているだけでも193、総数では500から600もの酒蔵があったのではないかといわれています。明治になるとその数はさらに増え、一千数百にもなったそうです。

長野県の日本酒造りの歴史−明治以降

昭和25年、業界二世を中心に立ち上がった「若葉会」の機関紙第1号

昭和16(1941)年に公布された企業整備令により、酒蔵の統廃合が進んでいきました。戦後、農地解放などにより大きく変化した経済構造に対応すべく、昭和25(1950)年、酒蔵の後継者による若葉会が設立。さらに、戦争により蔵人が戦線に行ったこと、また米が思うように手に入らず酒造りの技術が後退していたことなどから、技術革新を目指して同年、長野県醸友会も結成されます。3年後には、酒類業組合法の公布にともない、すでにあった酒造協会が解散、長野県酒造組合が創立いたしました。そして現在の長野県工業技術総合センターや長野県農業試験場とともに、県独自の酒造好適米や酵母の開発などが進められ、現代へとつながっていくのです。

参考文献:『信州の酒の歴史』(長野県酒造組合、1960年)